霜柱標本室

佐倉誰と仲井澪の公開交換日記です。日記と短歌です。最低ひと月に一往復を目安に更新します。

2024.3.15〜2024.4.22

佐倉誰

2024.3.15

春はたましいが太る。春は、というか、季節の変わり目はたいてい気持ちが昂って仕方ない。雲より飛行機よりはやく空を駆け回りたくなる。冬から春に移り変わるときのなまぬるい風の匂いは、とりわけ獰猛さを孕んでいて好きだ。容赦なく雪が解けて泥水だらけになった道が、歩きにくくてかなわないけど好きだ。雪の解ける絶え間ない水音と、砂利が混じってどんどん真っ黒になりながら縮んでいく路肩の雪が好きだ。高校生のとき、桜の花が好きで筆名の苗字を「佐倉」に設定したから、季節に対する同属意識があるのかもしれない。けものの季節。砂埃の季節。乱暴者の詩人の季節。陽気の今日はいつもの格好で外を歩いていたらどんどん汗ばんできて、マフラーをふりほどいた。

春 将来の夢はえんがわ炙り寿司 うれしくてマフラーふりほどく
/佐倉誰「窓を割る」

これは一年前の自作。この一首が思い浮かんだとき、交差点をななめに渡りながら私は本当にマフラーをふりほどいていたし、本当に回転寿司の炙りえんがわになりたかったのを覚えている。一年続けた仕事を辞める直前か辞めたばかりで、未来は暗かった。将来の展望がなく、しかし、信号に急かされて駆ける足取りはかえって軽かった。私は昔からあまり変わらない。変われていない、と言ったほうが正しい。計画性に乏しく、破滅的で、季節しか愛していないところが。後日この歌をごく少人数のzoom歌会で出したとき、好きな歌人の方が炙りえんがわは自分の好きな寿司ネタだとおっしゃっていて、こころがふわふわと弾んだ。すこし焦げて香ばしくなった甘い味噌だれと、あぶらっこいふるふるした白身の、全体的にあまいお寿司。季節や炙られたお寿司のように、私も歓迎されたい。歓迎される存在になりたい。そのための努力が、これほど難しくなるとは。

CM
明日が発売日の「現代短歌」2024年5月号のアンソロジー企画 "Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI" に、霜柱標本室の両名が参加させていただいています。既発表作からの自選短歌10首と小文が読めます。

https://gendaitanka.thebase.in/items/84181163
CM終了

CM後日談
乾遥香と瀬戸夏子の対談や他の方の寄稿作品をまだ読めていないので、あくまで現時点での所感にはなるのだけど。短歌と向き合う上での気持ちの逃げ場がなくなって、ある程度腹が据わってからこういった企画にお招きいただけたのは、臆病で怠慢な私にとっては率直に言って幸運だったと思う。もう少し昔だったら怖がって依頼を断っていたかもしれない。腹が据わってきたのがわかるから乾さんも声をかけてくださったのだろうか。いただいたものをなるべく無駄にしないように、今後も精進していきたいです。
私には短歌より大切なものなんて数えきれないほどある。まず自分の命、それから他人の命、雨風をしのぐ屋根とお金、友達、 身内。でも、短歌より好きなものはなかった。好きなものと死ぬまで関わり続けられたら幸福だと思う。好きな人に似たい、憧れた人たちの面影を引き連れて死ぬまで歩きたい。私は敬愛する方々の魂の切れ端をぎっしり積んで運びまわる幽霊船だ。これを機に、紙の上や土の上でお会いできる日が増えたらうれしいです。もちろん雪の上でも。

すべての桜吹雪は不完全だからひとりのひととして立ち合った

 

仲井澪

2024.4.22

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山形市某所にいたリスです。逆側から撮らなかったのが悔やまれる……)

春、というか季節ごとの心身の変化みたいなものをあまり経験してこなかったのですが、今春は少し不穏な気がしています。今は19時前で自宅にいて、近所の学校のグラウンドから聞こえる金属バットの打球音が、トライアングルの音色みたいに感傷的に、フリスクを食べたみたいにスーッと体内を刺すように聞こえます。こういう感覚ってどちらかというと秋口だった気がするんですけどね。春の訪れも東京に住んでいた頃に比べて遅くなっているはずですが、時差と同じように、そこで暮らしていたら分からなくなるものですね。
一週間前くらいに、久しぶりに少し心配な友達に連絡をした挙げ句、「私は自分がしんどいときほど人のことを心配したくなるから、送ってしばらくして自分が調子悪いんだなって気づいたよ……」ってその相手に言ってしまって(必ずしもいつもそうではないのですが)、本当にどうしようもないなあと思いました。仕事もそれ以外のことも気分的に停滞していて、結局ほんとは全部向いてないんだよな〜となるけど、でも向いてなくても私が私の人生でやらないと意味がないことってたくさんあるしな……と、でもなんかもう23歳で割と十分やりきったかも……と、色んな気分が渦巻いています。


『現代短歌』のアンソロジー号、発売から1ヶ月以上が経ちましたね。まだ1ヶ月しか経ってないのか。他の人が短歌のことを話すのを見聞きする場所がTwitterに偏る時期が続くと特に、話題が移り変わるサイクルがものすごくはやいように感じます。自分の告知ツイートでは「逃げ回るように変わったり面白くなったりするつもりです」と書いていて、その気持ちは嘘ではないんですが、3年くらいかけてやっと、この本の存在をじっくり現実として受け入れられるような気がする自分もいるんですよね。今、人々が「人それぞれ」と認識して、自分に合う程度を探っていくべきことの上位に、「物事を受け入れるスピード」があるんじゃないかと私は思っています……。
というのは一旦置いて、ひととおり読んだ今の雑感を書きます。
・まず、「乾さんがこの人を選んだんだ」ということ、「本人的には(あの歌を外して、この歌を入れて)この10首なんだ」ということ、コメント・略歴……と一通り読んで、(誌面の構成上目立たないけれど)「この人にとって自分の短歌はこのタイトルにグレーズされて都合が良いんだ」ということ、 etc...... 自分が参加者の一人だったことも踏まえて、結構色んな楽しみ方の段階があって面白かったです
・はだしさんが一番最後なのが、ほんとにこの特集の良さをグッと引き上げている気がする……短歌を読んでいて、”余裕感”みたいなものでこちらの力も抜けて泣きそうになる、みたいなのは初めての経験でした
・対談は、この雑誌を読む層の大半にとって「乾さんのスタンスと自分のスタンスの共通点、相違点を考えながら読む」みたいな感触になってるのかなと思っていて、私としては、乾さんが年齢とか”世代”にかなり拘っているのは結構共感寄りの部分で。この世代でこのコミュニティにいてこういう位置取りをしたんだ、みたいなことを考えるのが楽しいのもあるし、自分と近い世代なら尚更、今のうちに高い解像度でその辺りを見てたらあとで知識としての価値は上がるだろうし。あとは短歌歴に限らず、これくらいの期間人生をやってきた人がこういう短歌を書くんだ、みたいな読み方も自分は結構するな、という(乾さんがおっしゃるような「年取ること好きだし、」(p72)とかは別にないにしても)。それでいうと、自分より下の世代に、この雑誌でまだ拾われてない(でも「私が入ってるなら入っててもいいんじゃない?」とも思う)、アツいシーンがある雰囲気を今年に入ってからは特に感じていて、「下の世代……」と思って眺めている分にはなんとなく歴史的な掴みどころがありそうな気がする(別に早くそこを誰かが整理しないと、とかは思わないけど)、みたいなことをうっすら思っています
・一方で個々の歌の読みとか、作者のスタンスの受け取り方みたいなところは、自分と結構違うなと思います。特に、p20-21に見開きで載っている

タクシーを使いこなしている母と祖母を誇りにぬけるトンネル
/水沼朔太郎「2n+1」

リンス・イン・シャンプー 院進か就職か 全身点滅してる信号
銀杏は道に落ちなければいいのにな 法学部出身の好きな人
/由良伊織「友好」

に対して、

乾 (由良の)〈銀杏は道に落ちなければいいのにな〉とかも手ぶらすぎる。世代感としてはこの書き方に、自分とつながるところも感じるかな。
瀬戸 〈院進か就職か〉と〈母と祖母を〉もつながって見える?
乾 つながって見える。つながって見えて、ここではふたりを並べてあるということです。

っていう言及がされているんですが、個人的には由良さんの書き方は、「パーソナルな部分の開け渡し方を短歌のために調整している」というよりも、「パーソナルっぽい言い振りも含めたフレーズのカードの中から面白い色の短歌を作ってる」みたいに読みたい気がして(「手ぶら」の意味をあんまり受け取れてないだけで微差なのかもしれないですが)。それこそ序盤で言われてるようなテクスト読み……みたいな話にも重なると思いますが。(また別の話として、由良さんへの言及もっとたくさん読みたかったなというのもあります。)


こんなに長く書くつもりはあまりなかったんですが、かっこも多用して読みづらくなり、ごめんなさい。
後半は夜21時、コインランドリーで乾燥を待ちながら書きました。眼前のでかいランドリーたちの緑のライトが同じリズムでチカチカしているのを眺めて、「ドット絵GIFみたいだな……」と思いました。思いながら、私が短歌で好いている部分のひとつってそういう、現実感とキッチュさの間の揺らぎみたいなところかも、という気がふとしました。

にがい光、からい光が降ってきて目も口も閉じながら笑った