霜柱標本室

佐倉誰と仲井澪の公開交換日記です。日記と短歌です。最低ひと月に一往復を目安に更新します。

2023.10.21〜2023.11.9

佐倉誰

2023.10.21
本当にご無沙汰しています。前回の仲井澪への応答として、毎月更新は義務ではないのでのんびりやりましょう、の表明のために少し日をあけて書くつもりが、今度は私が書けなくなりました。
夏の間、東京ですこし働いて、10月に札幌に戻って来ました。振り返って、月日の経つ速度に驚いています。「幽霊には足がない」とは目撃者の証言ではなく、幽霊本人の体感による証言だったのではないかと思います。今、接地する足の感覚がありません。私は永遠に生きられる幽霊のような気で、めまぐるしい時代の風をごおごお浴び続けている贅沢者かもしれません。贅沢者?そんな上等なものでなく、きっとこの風は潮風と成分が似ているから、浴び続けていたら髪も肌もぼろぼろになるのではないかしら。ニベア塗っておかないと。みんなはどうしているのだろう。
東京ではエネルギーに満ち溢れている人、自分のやるべきことを見つけてこつこつ頑張っている人、努力が認められている人、無気力な人、焦ってる人、いろんな人に会いました(嘘かもしれません。ひとりかふたりの人間を多面的に眺めているだけかもしれません、自分自身も含めて)。人に会ったり、友達が忙しなく仕事する後ろ姿を眺めていると、これが時代か……と、ぼんやりながら掴んだ気がします。昨今のブームの文脈だけでなく、歴史には常に内側に動かしている人たちがいるということです。私が世界から必死に目を背けてうつむいている間にも、ずいぶん楽しいことが起きていたみたい。嫌なものを目に入れないようにして、取りこぼしてきたたくさんのもの。常に誰かが短歌の話をしていて、誰かが歌集を新しく出していて、今発表する人たちには今発表するだけのそれぞれの理由があって、私の手が伸びるのはその中のごくひと握りでしかありません。地球上には同じ時間が流れているのに、どこもかしこも入ってゆけない大縄とび状態になるのは変で、こんな話も陳腐でいやですね。あまりにめまぐるしく感じたから休むために札幌に戻ってきたのかもしれません(これは明確に嘘です)。耳があつい。わたしはお尻を叩かれた馬。陰鬱な馬。
最近の札幌は雨続きで寒いです。空気が冷たいほうが清潔な印象を受けるのは冷蔵庫のイメージ由来でしょうか。冷蔵庫の中だっていくらでも不衛生にできるのですけどね。

あかるくて冷たい月の裏側よ冷蔵庫でも苺は腐る
/平岡直子「みじかい髪も長い髪も炎」

この歌を思い出しました。ついでに3年前に私が苺を腐らせたときの画像を添付しておきます。腐らせたというか、カビが生えています。苺は悪くなってもビジュアルが毒々しくてかわいいです。
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仲井澪の書いた人生初の小説、楽しみにしてます。文芸同人誌「nakanzukus」vol.01で読めるらしいので、皆さんもよろしければぜひ。
頭がどうかしそうなほど嬉しい近刊情報が続いていて頭がどうかしそうです。クリスマスですか?私もぴかぴかのオーナメントになれるように頑張りたいです。

生き延びて野菜やヤクルトすくすく摂ってまた会えたら新宿紀伊國屋

 

仲井澪

2023.11.5
お久しぶりです。この日記は、LINEに「日記」という自分だけのトークルームを作って、そのノートに書き溜めているのですが、しばらく動いていないトーク画面を開くために、トーク一覧をスクロールするのってすごく ウ〜 ってなる作業じゃないですか? ウ〜 と思いながら余計にたくさん遡っていたら、去年の9月に作られた「涙」というトークルームが見つかりました。泣いたときに泣いているスタンプを送って、自分の泣きの頻度を記録するという趣旨のものだったんですが、去年の12月が最後の更新になっていました。せっかく飲まれても記録しようと思うくらい冷静になってしまうのは辛くつまらないことだから、よかったですね。ね。

東京での生活、お疲れ様でした。東京って、たとえば自分がすごく苦しいときに身を置くと、苦しんでいる人しか目につかないくらいに人がたくさんいるから、色んな人の姿が見えたということを聞いて勝手に安心しました。

触れてくださったように、私は最近、依頼をいただいて小説を書いていました。内容を考えるのも文を飾るのも直すのも、なんかずっと嘘をついているようで結構辛い作業でした。繰り返し読めば読むほど自分の作品の良し悪しが分からなくなるのは短歌も同じで、でもそれは勉強することによって克服されていくと思うのですが、小説でそれを克服するまでにはどれくらい労力がいるんだろう、と思うと気が遠くなりました。向いてないんだと思います。でも小説を読むときの楽しみベクトルが増えたし、経験としてはとても良かったです。これからまた書きたくなる人生になったら面白いなと思います。なんかネガキャンしてしまってる気がしてきましたが、全力は尽くして書いているのでぜひ読んでください。短編なのですぐ読めるはずだし、なんだかすごいメンバーです(11/11 文学フリマ東京T-43『nakanzukus vol.01』)。
文フリでは創刊号から参加している『コミュニカシオン』の2号で短歌の方の新作も出ます。私も当日参加します。怖楽しみ。

今、モスバーガーでてりやきバーガーを初めて食べたところです。山形駅前にはマクドナルドがなく、ロッテリアモスバーガー×2があります。良い街です。

サンタさんスケートリンクにある広告を全部蛾の写真にしたいの

 

佐倉誰

2023.11.9

張りぼての二十歳のわたしが振り返る 孤独はもっとずっと低カロリー
/北山あさひ「ヒューマン・ライツ」
※二十歳に「はたち」のルビ

北山あさひ第二歌集発刊の告知ツイートで見かけてから、ずっとこの歌の下の句が頭から離れなかった。

私は20代前半で、生まれてからずっと北海道に住んでいて、片親育ちで、今年の初夏から秋にかけては「自分はこの先一生、肉親を含む他人と寄り添って生きることなんて到底不可能ではないか」と思い詰め、恐怖と不安と後悔で破裂しそうだった。実際破裂していた。だから、同郷の女性歌人で、両親の離婚を詠んでいて、現在40歳頃である筆者が発表した当該歌を、未来に絶望している真っ只中である自分の状況に照らし合わせて読んでしまったのも無理はないと思う。お金を一銭も払っていないのにわたし宛にオーダーメイド短歌が届いたのかとすら思った。

それから、私はネットカフェのぺらぺらのブランケットにくるまりながら呟いた。孤独はもっとずっと低カロリー。少しの期間母が一人で暮らしていた家の、こざっぱりした台所や浴室を見て呟いた。孤独はもっとずっと低カロリー。いちいち覚えていられないくらい至るところで呟いた。ほっそりと立つ一首が、短い日本語を組み合わせた一文にすぎない短歌が、無力なまま、私だけの杖になった。
 
感情的になりすぎているので、少し離れたところから眺めて冷静になろう。


人間が子どもから大人になって年老いていく過程を想像するとき、私の脳裏に浮かぶのはサルがヒトに進化していく過程の絵だ。脳味噌の容量が増えて大きくなっていく頭蓋骨の断面と、四足歩行のサルが前へ進みながら徐々に背筋を伸ばし、体毛が薄くなり、最終的にヒトになる姿を、横から見た図。その構図に現代人の一生を当てはめると、四足歩行の赤ん坊から二足歩行の子ども→青年までが背の順で、最後は腰の曲がった老人に向けて徐々に背が縮む、ゆるやかな山の形を描くガリバートンネルのような側面図になると思う。
この歌は違う。筆者の現在の年齢が前情報として無くとも、下の句の呼びかけや二十歳を「張りぼて」と潔く言い切る含蓄から、年長者が年少者に向けて言葉をかけていると推察できる。つまり、年少の自分が未来の自分の背中を追っているのではなく、未来の自分が年少の自分を背後から見つめている。確かに、現在の自分の地点から見渡せるのはいつだって過去の姿であり、未来の自分の姿なんて後ろ姿すら覗き見できないほうが理にかなっている。この上の句によって、未来、あるいは死へ向かって脇目も振らず前進していくことしか許されないような「人間の一生」のイメージ図の固定観念にメスが入った。一列に並んで目の前の背中とにらめっこしているより、よっぽど視界がひらけている。同時に、若く・弱々しく・薄っぺらい自分の過去の姿を、成人式の豪奢な振袖などを想起させる「ハタチ」の輝かしい響きごと、「張りぼて」だと力強く斬り捨てる。そこには確かな愛憎が込められている。“結婚や子育てなどのライフイベントが発生する人生こそが理想的である”と讃えられ市民権を持つ現代社会への怒りと、その社会を内面化して孤独をひどく恐れている若年の「わたし」への苛立ちと、そんな「わたし」へエールを送りたくなる今の親しみと愛情が、「張りぼて」の一語に詰まっている。

しかし、遠くから声を投げかける自分は、「孤独は恐るるに足らない」と無責任に励ますのではない。孤独は、あくまで「思っていたより低カロリー」だったに過ぎない。ダイエット中に食べるコンビニの新製品のように、ちょっとふざけた口調で若輩者の自分のみならず現在位置の自分の不安も軽くして、軽くしただけで、それでも絶対に、ゼロカロリーにはならないのだ。北山あさひという歌人が語られるとき、ほとんど必ずと言っていいほど頻出する「力強い」という修飾に私が慎重になる理由は、こうした場面にある。もちろん大らかさも力強さも確かな魅力として存在し、必ずしも事後的なものではないけれど、それらは強大な無力感や諦念を踏みつけて立ち上がるために選び取られた、(たとえば私のなかで当該歌が紛れもない杖になったような、)ささやかな魔法なのではないか。
掲出歌の技術面に少し踏み込むと、「『は』りぼて」「『は』たち」「『わ』たし」のア行の頭韻で開かれた音が、「振り返る」のウ行に収束していくことによって、こちらに背を向けて前を向いていた自分が振り返って視線が合い、焦点が絞られる構図を韻律の機能からも支えているのがわかる。息を多く含むH音の繰り返しも、「(過去の自分が)振り返る動作」と「過去→未来の時系列の矢印」・「未来の自分が過去の自分へ向けるまなざしの矢印」が重なって動きに満ちている当該歌の風通しの良さとも一致している。下の句の「もっと」「ずっと」で重ねて強調することによって末尾の「低カロリー」に集中線が引かれ、若い自分の肩に置かれたもう一人の自分の手は一層あたたかく力がこもる。
一首を構成するこれらの技法の地道な積み重ねのように、力強さやユーモアとして手渡されているものは、選び取られた戦略のひとつだと思う。だからその覚悟が胸に迫る。生まれ持ったものだけでなく、傷つきながら必死で獲得していくものも、それこそ本当の強さだと思うから。
この歌集を今読めてよかったです。どうもありがとうございます。


ほとんどただの一首鑑賞になってしまったので完全に蛇足っぽいのですが、作ってからちょっと日が経っているけれど日の目を見なかった自作の短歌をここで出します。あと、最近は将来についてそこまで思い詰めてないので楽です。変な天気なので皆さん体調にお気をつけて。

こころにも増粘剤を織り込んでツアーガイドの旗があざやか