霜柱標本室

佐倉誰と仲井澪の公開交換日記です。日記と短歌です。最低ひと月に一往復を目安に更新します。

2023.1.4〜2023.1.18(四往復め)

佐倉誰

 

2023.1.4
明けましておめでとうございます。初日記です。年末年始はひどい空気の中で過ごし、日記に書けるようなことが本当に何もないので、とりとめのない自己開示を並べます。

・子どもの頃から、満腹のときとお風呂から上がったとき、心臓がぎゅーーっと締め付けられて心細くてたまらなくなる現象が起きます。「怖い」と「さみしい」が豪速で吹き抜けて、すぐに通り過ぎて行くかんじです。単に脈拍の増加や体温の変化を脳が勝手に恐怖心などと勘違いしているだけだと思いますが、人に言っても共感を得られたことがなく、ちょっとさみしいです。最近は特に、満腹になると心臓がドキドキするだけでなく体調を崩しやすくなるので、特に外出時はお腹がいっぱいにならないように気を遣っています。
・初めてのバイト先のことを、折に触れて思い出してはセンチメンタルになります。全然仕事ができなくて苦しかったし最終的にはクビになってしまったけど、生まれて初めて自分で働いてお金を稼いだ場所、という一点で神聖化されているように思います。そこで熱々のオニオングラタンスープをこぼして負った右手首の火傷のあとは、もうほとんど見えなくて垢が溜まった汚れみたいに煤けていて、でもまだ、どこにあるのかわかります。もうあのお店で給仕したりお酒を作ったりすることは二度とないし、当時の私と今の私の全身の細胞はすっかり入れ替わって違う人みたいになっているはずなのに、残っていてくれてありがとう。

痛くなくても火傷痕/作っては忘れるでたらめなパスワード

佐倉誰「てへぺろ進言集」

それと、二年前の春に寝不足が続いてひどい風邪をひいてから、それまでずっと低体温だったのに疲れるとすぐ微熱を出す体に変わりました。平均体温なんて一生変わらないと思っていたのに。あらゆる不可逆の積み重ねでここにいる、ことを最近は強く意識します。これまでは、その時々で違う私になっているのだから今の私は常に生まれたてだ、という思想のもと、世界はじめまして!私の体と人生にはじめまして!の状態で新鮮にこの世と触れ合っていた/触れ合うようにしていたのですが、どこまで行っても自分は自分でしかないことに気付いて、はじめてこの場に座り込みました。人生が動いている。

網をたぐれば金の罠 片道で足りる切符は最後に残す

 

2023.1.7
正月休みが明けてから、前よりは調子が良くて嬉しいです。性根がすっかり卑屈に萎びてしまってからはあんまり素直に浮き足立つことができておらず、ハレの日の空気感は肩身が狭かったのかもしれません。職場で年始の挨拶を交わすのは好きなのですが。
吉澤嘉代子の「鬼」の歌詞の中に「はじめてさわった手に戻ってよ」という一節があり、初めて出会ったときに「下の句だ……しかもめちゃくちゃうまい……」と感激した記憶があります。その後に吉澤嘉代子が短歌をかなりお好きらしいと知り合点がいったのですが、この一節、本当に、こころのやわらかい部分にひと足で切り込んでくる居合の達人みたいなキラーフレーズだと思っています。

過去にだれともであわないでよ

若いきすしないでよ

今 産まれてきてよ

/今橋愛

上記の今橋愛の代表歌のパワーを、面食らわない程度にいじらしさで包み込んでちょうどよく提供されている……もちろん全体の歌詞も曲自体もたいへん素晴らしいのですが、特にこの一節のことを昨日からずっと考えています。大好きな人を自分だけのものにしたい、という傲慢さを「女の子の嫉妬心」というラブリーなパッケージで包んでいても、芯の切実さで嫌味を感じさせないというか……もちろん切実ならなんでもいいわけじゃありませんが。穿った言い方をしすぎているでしょうか。考えなしに絶賛することを避けるとどうにも塩梅が難しくなります。
短歌の中に実際に存在する歌の歌詞を盛り込む、というある種の本歌取りはときどき見かけますが、というか本歌取りに対しても、読んだ人にその人が自分で考えたフレーズだと思われてしまう可能性がゼロではないなら少なくとも私は作りたくないな、と考えているのですが、この「はじめてさわった手に戻ってよ」に類するような切実さといじらしさとのバランスは、ちょっとやそっとじゃできない……気がします。そう思いたい自分がいます。実際にできるかどうかではなく、それくらいかけがえのない価値のあるものとして扱いたいということかもしれません、急に意識がメタになってしまいました。このへんにしておきます。
今日はなんとなく火が見たい日でした。大森静佳のヘクタールを最高のタイミングで読むためにずっとあたためていたのですが、一時間こまぎれにべそべそと泣いていたら「今だ!」と天啓が降り、香水をつけたくまのぬいぐるみを抱きしめながらゆっくり読みました。いくつか短歌を作り、画像にまとめてツイッターでアップしました(10首あるのでよろしければご覧ください)。ヘクタールの悠々とした空気を受けて意識的にしっとりした作風でやってみたのですが、私にはあんまりしっくり来ませんでした。もっと跳び回るような短歌が好みです。

提灯がこころをひとつ転がって焼かれた道に歌が生まれる

今回の日記は特に主観がうるさいですね!しばらく書かないでいるうちに日記が下手になった気がするので頑張りたいです……。今年もよろしくお願いします。

 

仲井澪

 

2023.1.11
あけましておめでとうございます。3年前くらいに買ってずっと冷蔵庫の奥に入っていたかき氷シロップの賞味期限が2022年3月だったのですが、2022年3月の賞味期限を見て、過ぎてるって思えないな……と思います。
今春大学を卒業したあとの就職先が47都道府県全国転勤で、私はおそらく東京を離れることになります。最近はそのことをずーっと考えています。東京に住んだ4年間がエモーショナルな思い出になっていくのだろうなということ。東京に関するエッセイ集を5月の文フリとかで出せたらなと思っているのですが、さすがに色々バタバタしていて難しいかも……まえがきだけ用意してあるので、自分に実現の期待をこめて、めちゃ長いのですが転載してみます(読んでくれたら嬉しいですが読み飛ばしてもらっても大丈夫です)。

✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏

2021/12/5

昔、父親に東京に連れてきてもらうたびに何かにショックを受けていて、帰ってお風呂に入りながら、「東京に住むことはできない」と思っていたのを覚えている。初めて行ったときは確かホームレスの人の多さにショックを受けて、次の記憶は中野駅前で人の頭から垂直に血飛沫が出ていてみんなが一斉に駆け寄る風景と、その後に入った中野ブロードウェイのドールショップでみた大量の眼球、まんだらけの店員が着ていた、裸の幼女のキャラクターが描かれたTシャツで、でも今では中野は一番好きな街ということになっているし、東京に住むようになってから人の頭から垂直に血飛沫が出ている光景は見たことがない。今は、帰省した時の宇都宮駅前大通りでの方が嫌な思いをしたり、する。

東京に憧れはあるけど別に特別な感情はなかったし、同時に今でもずっと特別な感情を抱き続けている。

同じことで同じ立場の人が同時に争っている場所の方が怖くて、東京だからといって劣等感や無力感を感じたことがない、だけど部屋の中に居続けていても私は確かに東京に住んでいるのだろうし、Twitterには行こうと思えばすぐに向かえる場所がたくさん流れている、流れている、流している、

日当たりの良い公園がたくさんあることとか、少し足を伸ばして県外に行った時の、こんなに短い時間でこんなに違う風景を見られるのかという驚きがたのしい、表参道を歩く人々のほとんどが私には

東京について語る全てが過剰に東京を特別なものにしていく様が羨ましいから、東京に住んでいてうれしいと思う。

2022/10/12
「東京について語る全てが過剰に東京を特別なものにしていく様が羨ましいから、東京に住んでいてうれしいと思う。」……だからといって、私がそれに加担する必要があるのか分からないと今は思う。もっと本当の話をしたい(でもこうやってこだわっているのがもう、)。
栃木県の宇都宮市に住んでいて、中学生くらいから1人で東京に遊びに行ったりしていたから、「上京」という言葉はそこまで切実ではなくて、なにがあるのか、どうなっているのか、それなりに分かっていた。「Z世代は青春に終わりがあることを、その只中に知ってしまっている」みたいな言説があるけど、私は同じように東京の輪郭をある程度知っていたし、実際周りを見てもそんな感じで、「上京」が広くリアリティを持つ時代はもう過ぎたんだと思う。
かつての私がショックを受けた事象は今でも確かに発生していて、でもそれは背後を勝手に推察してショックを受けたと書くべきことではないし、宇都宮駅前大通りでの「嫌な思い」(自分が被害を受けた)と全く並列して語るべきことではなく、この類の反省は確実に自己の成長によってしうるものなので、去年の12月から今を、生きていてよかったと思う。
大学1年の頃から、文京区の茗荷谷という地に暮らし始めて4年目になる。経済的に裕福な家族と学生ばかりの街で、下町情緒みたいなものはなくて、あんまり東京をレペゼンするような場所ではない。私は長い時間を狭くて暗い部屋で過ごしながら、時々、半径2キロほどの東京ドームで野球の試合や名だたるアーティストのライブが行われていることを思ったり、立地の良さを活かして実際に色んなところに行ってみたり、をそれなりにしながら、鬱屈したりフッ軽と言われたりの4年間を……。
メインストーリーの敷けない4年間を、私が暮らしていたことや訪れた場所のこと、1人でぐるぐる考えていたことを、私は私のために特別に、分かりやすくないまま特別にとっておくために、記録しておきたいと思った。

/いつか発行されるかもしれない東京についてのエッセイ集より
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
今日はその、中野ブロードウェイを久しぶりに訪れました。「サブカルの聖地」です。地下1階から4階までフロアがあって、天井が低い古びた建物に、まんだらけとか、アンティークショップとか、時計屋さんとかがぎっしり……とは言っても水曜日ということもあり、記憶よりシャッターが閉まってるお店が多かったです。稀風社の冊子が買える「タコシェ」も、オリジナルファンシー雑貨の「Spank!」も入れなくて悲しかった……。それでも、心なしか不安になるその空間がやっぱり好きで、地下一階のクレープ屋さんで、連れ回した人とかぼちゃクレープを食べて、幸せでした。佐倉さんの1月4日の日記を読んで、私も「毎朝世界初見状態」と思っていたので、佐倉さんの「人生が動いている。」という言葉で、心底のブルドーザー(?)が動いた気がしました。意識の仕方は違うけど、そこにいて関わった人や場所があって、私にしかできない東京の愛し方を今している。この先すべての場所にこうあれたらいいと思います。
一昨年の末につくった連作「縫いしろ」から、一首改作です。

秘密だよ たまに光って見えるときすごく光ってくれる東京

今年もよろしくお願いします。

 

2023.1.18
午前中は、来月予定している卒業旅行のためのパスポートの手続きをしに、池袋のパスポートセンターに行きました。池袋駅から歩くと片道でトータル20分強かかるところにあるのですが、写真のサイズに不備があり、その場で撮り直す時間はなかったので出直すことになってしまいました。でも、取り返そうと思って帰りに買って歩きながら飲んだ、タロイモココナッツミルクタピオカ(?)がとてもおいしかったのでよかったです。
午後は、昨年12月にお友達と行った陶芸体験のところに、焼き上がった陶器を引き取りに行きました。釉薬の色がとても綺麗に出ていて、お互いの作ったもののうち1つを交換できたのもとても嬉しかったです。特に気に入る出来だったのはお茶碗です。月みたいじゃないですか🌕 
f:id:nakimusi_sak:20230126120250j:image
それとそのお友達がサプライズで、川柳作家の柳本々々さんとイラストレーターの安福望さんによる日記本『バームクーヘンでわたしは眠った』を贈ってくれました。川柳と日記とイラストが全ページフルカラーで載っていて、装丁もとてもかわいい本です。気に入ったページから引用します。

日曜日にふさわしい目 あなたといる
(中略)
わたしたちはあとどれくらい長生きするかの話をする。どれくらいのひとと別れたかも。そのひとの話はじめて聞いたかもね、とあなたは箸でハムをとりながらいう。ラーメンのなかにハムが入ってたんだ? そうだね。あなたといる。
/柳本々々「6/10」『バームクーヘンでわたしは眠った』

その本の内容に相手を、相手と私のことをどうしても重ねる……好きな本を贈ってもらえるってものすごいことですよね。前向きに躊躇ったり踏み込んだりしながら静かに話し続けることのできる人の存在を最近とてもありがたく思います。
そういうものを大切にしながら、糧にしながら、自分は自分のやり方でかっこよく世界に挑んでゆきたい1年です。戦いだから……。

手を繋ぐことから逃れられなくて痛々しいほど月の物真似


 

2022.12.1〜12.26(三往復め)

佐倉誰

2022.12.1
泣いたあとに深夜のキッチンで食べる杏仁豆腐おいしすぎる とツイートしようとして、やっぱり日記にしよう、と踏みとどまってこちらに書いています。前回から食べ物の話が連続してしまってすみません、私は食べることに特別な感情があるんです(好き、と屈託なく言うことにはちょっと抵抗があります)。
太宰治の「人間失格」のエピソードに、下宿先の娘が泣きながら自分の部屋に入ってきた時、柿を剥いて手渡して食べさせ、本を貸してやると気を取り直して部屋を出て行った、というシーンがあります。泣いている女には甘いものを手渡してやると機嫌を直す、という彼の経験則が続いて弁明され、初読の私はずいぶん舐められたものだと憤慨したものですが、泣きそうな気持ちで甘いものを口にする体験を何度も重ねた今、物言いが鼻持ちならないだけで言い分はあながち間違いではない……と考え直すようになりました。癪ですが。
甘いものが好きです。ケーキや焼き菓子やつめたいお菓子、基本なんでも好きです。お菓子のコンセプトとして「食べてこころが温まるように」などに類するものを時々見かけますが、私の思想は逆で、口にすることでさみしさが胸の奥ではっきり形をもつような気がするから、好むようになりました。焼きたてのお菓子はまた別ですが、甘いものを食べるとこころが涼しくなります。実際、上白糖に体を冷やす効果があるからかもしれません。泣きそうなとき・泣いているとき・泣き終えたときに舐める蜜は平常のそれより格別に甘く感じて、とびきり癖になります。何もなくてもうっすら悲しい日々が何年も続いている私は、砂糖の記憶がどれも感傷でコーティングされてきらきら歪にかがやいています。感傷が砂糖を、砂糖が感傷を、互いに輝かせ合い甘美な記憶へ仕立て上げているのだと思います。グロテスクですね。自己陶酔みたいなことをおおっぴろげに言うもんじゃないかもしれません。
過去の自作にも、甘味はよく登場しています。

ドーナツの砂糖が紙を透かしてく速さ 仕込み刀 無問題

/「♪(initialized)」

頭のうらにへばりついてる万国旗パフェスプーンで掻き出さなくちゃ

/「降霊」詩歌の焚火創刊号所収

それから、あなたの日記にあった「流浪の月」の、ガムシロップを大量に入れたコーヒーで眠らせるくだり、謎です。ミルクや紅茶なら寝る前に飲むイメージがありますが、どうして眠る前にわざわざコーヒーを……?と思ってしまいました。私はカフェイン耐性が脆弱で、コーヒーどころかカフェオレ一杯で心臓がドキドキしてしまう(そのドキドキを利用して短歌を作ったりします)ので余計に。眠る前に甘いもの、定番なのかしら。生活リズムが狂ってしまったのは気の毒ですが、ケーキがおいしそうでちょっと羨ましくなってしまいました……。ごめんなさい。

みみずくが遠くで雪に落ちる音 お砂糖に踊らされてパーティー

あなたがたくさん眠れますように。それから卒論が無事終わりますように……。頑張っていて本当にすごく偉いです。根を詰めすぎず、終わったらなるだけぱ〜〜〜っとしてください。

短歌の話をします。我妻俊樹さんがツイッターで連載されていた「今月の5首」が、今年の12月で最終回だったことが残念です。毎月楽しみにしていました。二年間本当にどうもありがとうございました。

天井に天国の絵が描いてある 勇気が君を寝かせる前に

/我妻俊樹「雪」今月の5首(2022.12)より

ため息が出ます。上の句はシスティーナ礼拝堂の天井画のような荘厳なものを思い起こさせるようでいて、さっぱりとした把握がテーブルの裏に描かれた子どもの落書きのような稚拙さ、良い意味で高級感のない神聖さを連れてきます。そして「勇気が君を寝かせる前に」の圧巻の下の句!先に触れた子どもや年少者の存在感を醸しつつ、年長者/保護者(に近く見える存在)の愛情深い眼差しによって、絵本や児童書の書き手が読者に語りかけるような記述になっています。なにより、寝かせるものが「勇気」であることの驚きと、不思議な納得感。今日の自分、をここで閉じて、明日の自分、へ推進すること。まだ見ぬ世界に自分を託すこと。それは確かに、「君」を寝かせるのは疲れや眠気やホットミルクなんてなまやさしいものではなく、「勇気」でしかありえない、と思ってしまいます。そして、明日へ旅立つ前にカットインするのが素朴な神性である、一首の構造の美しさ。なんてやさしくてまっすぐで広々とした良い歌なんだろう!!と泣いてしまいそうになりました。一生かけても辿り着きたい。我妻俊樹さんの短歌を読むと、短歌を好きになってよかったなあ……としみじみ思えます。もっと頑張りたいです。

 

2022.12.5
あなたの11月26日の日記への応答が不十分だったので補足します。

(前略) 素敵っぽいことが並んでいるのを後から読むと、後ろめたい気持ちになります。こういうことは、私が私のねちねちした生活に健康な外部性を取り込むためにやっていることだから、と、言わなきゃいけないという思い込み。書かなかったもののことを、私は私で愛しているから誰にも知られなくてもいいと、言える自信がまだありません。

ここ、激しく共感しました。共感、は正しくなくて、実際私の場合は後ろめたさなどの形では現れないのですが、「生活に健康な外部性を取り込むためにやっている」の一節で膝を打ちました。それです。一人でひっそりと書く日記ではこうはならなくて、特定/不特定多数の誰かに見られる前提だからこその“生活のブラッシュアップ”は必然的に存在します。公開する日記を書く(書かなくてはけない)ことと、現実の生活と、双方向に影響を及ぼし合っていることが少し怖くもあり、それこそあなたの言う「健康な外部性を取り込む」ようなことが成功するなら、非常に有益でもあると私は思います。でも、後ろめたくて(私含む)読者に正直に弁解したくなってしまうあたり真面目だなあと思って、読んでてにこにこしました。
霜柱標本室の名前が決まったとき、私はこう書きました。

解けていく今日の私たちを、少しでもこの世に留めていきましょう。踏んづけてはだめです。踏んづけないように。

ここに確かに存在する自分を忘れたくない気持ちと、早く忘れ去りたいような気持ちの、自己愛のバランス。私は日記も短歌も「忘れたくない」の気持ちの強さでずっと愛していた側面がありますが、今は本当はもっとずっと消極的な別の理由で書いているかもしれません。ここで書くと最終回みたいになってしまうので、またいつかきちんと話せたらと思います。
 
今日ついに手袋を解禁しました。手首のところにポンポンがひとつ付いてるだけの、シンプルなブラウングレーのミトンです。内側の触り心地が本当にうさぎみたいにふわふわで、手に意識を向けるとなんにもなくても嬉しくなります。お気に入りです。季節ものを解禁するとわくわくしますよね。
それから、帰り道の話。冬はマスクを着けていると眼鏡がとんでもなく曇ります。前がほとんど見えなくなるくらい曇ってくるのですが、眼鏡についた水滴が光を屈折させるおかげで、電灯はオレンジ色の光輪を、車の白いヘッドライトは虹色の光輪を放って、まっしろな視界が花火だらけになります。夢みたいでした。夢みたい、なんて頭打ちな比喩を安易に使ってしまうのも悔しいので、今日はこれを短歌に……と思いました。

渾身のこの世の檻が 冬花火 わたしをまっしろに閉じ込める
 

仲井澪

2022.12.24
朝の5時半です。22日に卒論を無事提出することができて(それでかなり日が空いてしまいました 佐倉さん応援していてくださり本当にありがとうございました……)、23日の夜に宣言通りぱ〜〜〜〜っとお酒を飲んで眠ったら2時前に目覚めてしまい、今まで起きて書いています。今日は、日記を書けなかった間にあったことを少し振り返ろうと思います。
❄️
東銀座のIG Photo Galleryで24日の今日までやっている、大島渉(大島智子さんと山本渉さんのユニット)個展「多摩多摩」を、2度観に行きました。
大島智子さんは、初谷むいさんの第一歌集の装画も描かれている方で、私が中学生の頃からずっと好きなアーティストです。前回渋谷で個展をされていたとき、私はちょうど受験生で行けなかったことをすごく悔やんでいたので、東京に住んでいて、足を運べることが本当にうれしいです。多摩地域周辺の郊外をモチーフにした写真やイラストで構成された展示で、大島さんの描くイラストは、人物の物憂げな表情は残しつつ色づかいの温かみが増しているように感じたり、以前よりも盗み見ているような気がしなくなった、みたいなことを思いました。同時に、社会全体の傾向としてもあり、同時に当然自分のテーマにもなっていた「生活をやっていく」みたいなこと、をせざるえないことへのある種の諦念みたいなものも明らかで、とても分かるなぁという……うーん、展示について書くのって難しいですね……。描かれている人物のポケットからスプラトゥーンのチャームが出ていたり、ドローイングに謎のメモが添えてあったり、そういうひとつひとつに心を撫でられます。(この段落を書く途中でもう一度寝てバイトに行く、を挟んでおり、今東銀座のドトールにいます、ので、このあと3度目を観に行きます)
❄️
大切な子と日比谷公園のクリスマスマーケットに行こうとしたのですが、人が多すぎて列に並んでも入場できるかわからなかったので泣く泣く諦めました。帰りがけ、公園の前の大きな横断歩道にスマホが落ちていて、轢かれて粉々になる未来が見えたので拾って交番に届けました。落とし物を届けるのは初めてだったんですが、おまわりさんに、「別に持ち主が誰とか知らされなくてもいいよね?」「あなたが誰ってことも伝えなくていいよね?」とまくしたてられ、大変なお仕事なんだな〜と思ってウケました。交番までの途中の道で見えた「オムライスとケーキ」という看板が魅力的すぎて、そのお店に入ってオムライスとケーキを食べました。食べながら、年末に一緒にケーキを作る約束をしました。

f:id:nakimusi_sak:20221227200113j:image
❄️
卒論提出6日前に、「追い詰められてる時に行くライブほど最高なものはないでしょう……!」という気持ちで、大好きな魚住英里奈さんという歌手の方のライブを観に行きました。魚住さんの書く詩と歌声、強くて伸びやかで隙がなくて、安心して衝撃を受けられるんですよね。この日は特に、「宇宙一歌が上手いのでは……」と思う、いいライブでした。

この街は優しい国だから傷付けても大丈夫 

人は離れて行くだけさ

/魚住英里奈「袖に隠したチョコレート」

大久保にある「ひかりのうま」というライブハウスだったのですが、ここも本当に好きで、地下の暖かい空間でいつもラムのカクテルを頼みます……。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
せっかくクリスマスの時期にターンが回ってきたのにあんまりクリスマスのこととかが書かれない日記……。もうすぐ今年が終わりますね。今日一緒にギャラリーに行った社会人1年目のお友達と、「私たちは色々ある年でしたよね〜」「何もない年ないからね〜」という話をして、良かったです。何もない年も何もない日も何もない時間も一個もなかったからこうしてる。

キューピッドあなた の知らないことをまだ 話せる私の運の生涯

 

2022.12.26
今日は卒論執筆中の皺寄せをどうにかしよ〜と思い、大量のペットボトルを処分したり洗濯を2回したり、肉のハナマサで調達したものでミートドリアを作ったりしました。洗濯を2回する過程で壊れた洗濯機に200円吸われました。ハナマサに合い挽き肉が置いてなくて店員さんに聞いたら「今作れるみたいです!何グラムくらいですか?」と聞かれ、生活力がないので自分が何グラムほしいのかわからず、パニックになりながら勘で「300くらいですかね……」と伝えたら、ちゃんと欲しかった量が用意されて安心しました。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
12.1の日記を読んで、以前から感じていたことではありますが、佐倉さんは日本語を綺麗に使う(慣用表現とかを自分に手繰り寄せつつ、ニュアンスの重みを残しながら使う)人だ、と思いました。甘いものが好きというところの文章、隙がなくてかっこよい……。ちなみに『流浪の月』で、甘い珈琲を飲ませて眠らせているのは、青年が珈琲店を営んでいるからでした。確かに変ですよね。私も寝る前は基本カフェインを避けるようにしています。
❄️
11.26の日記に触れてくださりありがとうございます。にこにこされている☺️ より詳しく書くと、私は日記を書いていても書いていなくても、自分の行動が「やりたくてやっている」ことなのか「やりに行っている」ことなのかが分からないことが多くて、それが鬱陶しいので過剰に素敵っぽいことを「やりに行っている」ところがあります。それが日記として読まれたときに、「この人は根っからこういう生活をできる人なんだ」となるのが怖い、という感じでしょうか……。もっと「やりたくてやっている」と自信を持って言えることを増やしたいのですが、分からないことばかりです。
❄️
眼鏡が作る花火、見えたことないかもです……私は基本コンタクトなのですが、気になります。手持ち花火のおまけでついてる、花火の光が全部ドラえもんの顔になる眼鏡を思い出しました(伝わるかな)。北海道はきっと雪が積もってるんですよね、全く解像度の高いイメージができない。冬の雪国、とても行きたいです。私は手袋が行方不明でまだ出せてません( ; ; )
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
私は明日がバイト納めで、29日には宇都宮の実家に帰ります。大晦日にはここ5年ほど、きのこ帝国というバンドの「ラストデイ」という曲を聴いています。年末と世界の終わりを重ねた美しい曲なので、ぜひ聴いてみてほしいです。少しでも多くの人があたたかい年末年始を過ごせますように。

Empire State Building お祭りで掬った金魚がまだ生きている


 

2022.11.22〜11.30(二往復め)

佐倉誰

2022.11.22

イヤホンをつけていると、嗅覚がにぶる気がしませんか。嗅覚だけでなく、同じ景色に同じ彩度でも、音楽を聴いているか否かで、全然別の景色のように感じます。私は世界が見えすぎているとこわいので去年までほぼ裸眼で生活していたのですが、日に日に視力が落ち、今では眼鏡がないと景色がぼんやりしすぎて気持ちが悪くなってしまいます。あまり視界を明細にしたくないのに……。だから、目から入る情報量に差はなくとも、音楽によって脳まで届く視覚情報がうっすら減る気がする、と気づけたのは自分にとって良いライフハックでした。でも、私は風のにおいをこの世で二番目くらいに愛しているから、鼻がにぶるのだけは勘弁してほしいです。風というより、空気のにおいが好きです。風は風で好き。朝昼夕方夜、雨雪晴れ、365日のグラデーションでくるくると移り変わる空気のにおいが大好きでそれはもう羨ましいです、私もこれくらい自由でいることを許されたならどんなにいいでしょう。人間のお天気屋さんなんて厄介がられるだけです。


今日、文房具屋でスノードームとクリスマスカードを見ました。それから、母と一緒に兄の誕生日プレゼントを探して服屋をまわり、うまくいかなくて、トイレットペーパーで鼻をかんだりベンチに横になったりしました。帰ってきてから、全身を濡らすのが面倒で、足だけシャワーと石けんで洗いました。お散歩のあとの犬の気分でした。ひどくくたびれていて眠たいけど、ここで書かなかったら今日のわたしには二度と戻れん、と気力で書いています。絶対に今日書かなくてはいけないことがあったわけではないのにね。言いたいことがたくさんあって、見せたいものもたくさんあって、なにもかも足りません。
 
「了解」の表題作を初出である同人誌「夜のでかい川」(平出奔さんと田中はるさんの共著)で読んだとき、すごいけど生々しい……と面食らった記憶があり、歌集単位で読むことにちょっとこわさのようなものがありました。でも、あなたの評を読んで、そのこわさを乗り越えてとても読みたくなりました。思わずその本を読みたくなる評は良い評です、言うまでもなく。
今朝、あなたの連作「着信」(Q短歌会機関誌第五号所収)を読みました。読んでいて、ここにはあなたがいるなあ、あなたに会えて嬉しい、とまず思いました。嬉しいとか、好きとか、そんな直接的な言葉ばかりで楽に伝えようとしてごめんなさい。作中主体=作者、みたいな短絡的な読みを直感的にしているというわけではないのですが、なにを美しいと感じるのか、あなたの感傷はどんな形容が似合うと信じられているのか、言葉遣いの節々から滲むそれらから、日記を交わす相手の知らない一面をまた見ることができたように感じました。もちろん剥き出しの人間に出会うばかりが短歌ではないので(絶対に)、すべて身勝手な勘違いかもしれませんが。やさしさ、や かわいさ、への穿ち方というか屈託に、とても共鳴しました。
 
今日あったことを話すね今日あったことを聞かせて盗み聞かれても
ドリンクバー注いでくるたび「何にした?」って聞き合うふたりとも生きている
書き終わらない手紙が私の指を歪めて示し始めるのは悪の道
/仲井澪「着信」
 
今朝はよく晴れていて、雨上がりの秋の道が綺麗でした。友達が作詞したかなしくてやさしい音楽を聴きながら歩いた、綺麗な朝でした。今日はこれにします。

けものにはなれないわたしが踏む落ち葉 雨後の道は天啓みたい でも

 

2022.11.24
今日のタイトルは「月蝕パイ」です。
兄の誕生日だったので仕事を終えたあと母と合流し、ケーキを買いに行きました。その道中寄ったイタリア料理店で食べたアップルパイの形状が、すごく変でした。
三日月状の大きなパイの中には何も入っておらず、月の欠けている部分にコンポートしたりんごとバニラアイスが添えられている、という斬新な構成でした。ざくざくと焼きたてのパイを切り分けて、まるく積み重なったりんごのスライスを一枚一枚剥がしてパイの上に載せて、溶けた自家製アイスに絡めて食べました。バターとりんごとシナモンとバニラのありきたりでいい香り。私は香りの良い食べ物が大好きです。
変な形だったので月蝕パイと勝手に名付けました。パイの表面に粉砂糖が振りかけられているし、ちょうど月面みたいなんじゃないかしら、と思います。多分そんなこともないです。写真を載せておきます。とても大きいんです。

f:id:nakimusi_sak:20221203135303j:image 
家ではお肉といくらとケーキを食べて兄を祝いました。いかにもなご馳走ですね。来年から兄は遠方での就職が決まっているので、家族で兄の誕生日を祝うのはこれが最後かもしれませんでした。私は肉親との距離感が難しいので、さみしいのかはまだよくわかりません。でも口に出して「おめでとう」と言って拍手できて、ちゃんと祝えたと思うので、良かったです。
昔作った短歌がちょうど今日にぴったりなので、引用します。

兄とは呼ばれなかった頃も兄にありケーキの金箔ちらちら揺れる

昨日の日記が書けなかったので昨日のことも。昨日はあなたとの交換日記の名前を決めることができて嬉しかったです。名前自体が素晴らしいのはもちろんですし、あなたのアイデアと私のアイデアと、ちょうど半々くらいの割合で考案することができて、理想的だったと思います。霜柱標本室。改めてよろしくお願いします。解けていく今日の私たちを、少しでもこの世に留めていきましょう。踏んづけてはだめです。踏んづけないように。
明日と明後日は立て続けに、大事な人たちにお会いします。いずれの方とも久しぶりで緊張しますが、今から楽しみです。嬉しいことに目を向けないと。ね。おやすみなさい。

居残りの母とわたしは切り分ける月の形のアップルパイを

 

仲井澪

2022.11.26
深夜3時半に書いています。昨日どうしても眠れなかったから、徹夜してお昼すぎにバイトに行きました。眠れない間、凪良ゆうさんの『流浪の月』という小説をKindleで読みはじめ、結局最後まで読み通してしまいました。最近ずっとリピートしている七尾旅人さんの『八月』という曲の、YouTubeにあがっているライブ映像についていた「そうだよ。でも、やっぱり、ひとりは怖いから」というコメントがどうしても気になり調べたところ、『流浪の月』の引用で、凪良さんがこの曲を聴きながら執筆されていたとのことで、それをきっかけに購入しました。周りから見れば、分かりやすく危険な物語に仕立てられてしまう文と更紗の関係の、当人たちにしかわからない切実さみたいなこと……私はそういう物語を諦めるように内面化して、切実さを勝手に手放して、良し悪しを決めるのは自分なんだから本当は無視すればよかった沢山の物語を、嬉々として自分の選択したもののように語りながら生きてしまっているから……そういうことを考えながら読みました(眠れないわけだ💢)。文が、疲れた更紗に「とんでもない量のガムシロップが入ったコーヒー」を飲ませて眠らせるシーンがあり、私は眠れないときいろんな睡眠法を試してきたけどその発想はなかった……と思って、バイト帰りにケーキを2つ(ショコラとサバラン)買って、食べて、17時頃に眠りました。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
「霜柱標本室」私も嬉しいです。外国のクリスマスみたいな空気のカフェでお茶をして嬉しかった帰りにLINEをしながら決まった、その帰り道のことを、ずっと覚えている気がします。こちらこそ、改めてよろしくお願いします。
空気のにおい、私は好きと言えるほど明瞭に感じたことがない気がして、そのことを羨ましいと思いました。さみしいから(?)家の中でも常に何か音を流しているし、外を歩くときはほとんどイヤホンをしているので、そのせいかも、ということにも気づきました。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
こうやって日記を書いていて、眠れなくて本を読み切ってしまったとか、「サバラン」とか「外国のクリスマスみたいな空気のカフェ」とか、素敵っぽいことが並んでいるのを後から読むと、後ろめたい気持ちになります。こういうことは、私が私のねちねちした生活に健康な外部性を取り込むためにやっていることだから、と、言わなきゃいけないという思い込み。書かなかったもののことを、私は私で愛しているから誰にも知られなくてもいいと、言える自信がまだありません。

こんな物語はいらないって降りる、いめっじの いまーじゅの階段

 

2022.11.30
夕方、友達行きつけのラーメン屋さんについて行って、油多め味濃いめの家系ラーメンと、にんにくとマヨネーズを大量にかけたご飯を食べたので、りんごジュースを飲みながら書いています。一昨日、初めて髪の毛をすべてブリーチしてオリーブ色に染めました。全然似合ってない気がするし、私には私が黒髪じゃなくなることを止める(それがきもい行為でも)誰かがいなくちゃいけないんじゃないの、と思うし、髪の毛の色が変わることなんてどうでもいい気がするし、思ったより明るくなっちゃったけどバイトとかどうしようかな〜、と思っています。
今日で11月が終わります。時間の区切りに過剰に意味を見出すのは苦手だけど、年末の空気は好きです。そういえば去年の大晦日は「年末つまんね」という回文を思いついてテンションが下がりました。卒論の締切が12/22にあって、全然終わる気がしません……それは私が、朝起きていたり、夜眠れなかったりするのに布団の中にいる時間が長すぎるとか、そのときやりたいこと以外やるのが難しいからで、でも結局なんとかなるのかな。なんとかなりました!って、日記に書けるようにしたいです。卒論が無事提出できたら、いっぱいお酒を飲んだり、かぎ針編みを練習したり、一人旅に行って旅行記を書いたり、来年からの暮らしのことを考えたり、また1日1枚写真を撮ったりしたいです。ぱ〜〜〜っとしたいです。

指先についた花粉が洗っても落ちない小学校 聞かないで

2022.11.16〜11.21(一往復め)

 

佐倉誰

2022.11.16
北海道に住んでいます。
東京のプラネタリウムで働きたい、と閃いたのは3週間前のことです。でも特に星は好きじゃありません。自分を構成するものから遠く離れて、なにか綺麗なものを黙ってじっと見ていられたら、という願望があったからそんな突飛なことを思いついたのかもしれません。でもプラネタリウムで働くなら星座の説明をずっと喋っていなくてはいけないから、黙ってはいられませんね。
最近はずっと引っ越しを夢想しています。一週間くらい前、短歌で連作を書こうとしたら真っ先に物件の内覧の妄想が出てきました。パリッとしたスーツに身を包んだ大人の人の後をついて、知らない空っぽのお家の中を見て回るのは不気味で楽しくて大好きです。嫌いな人の方が少ない気がしますがどうでしょう。私の生活に夢っぽくない時間はそんなにありませんが、その中でも内覧の記憶はだいぶ夢っぽいです。はじめて一人で物件の内覧をした時、2年前なので子供と言える歳でもありませんでしたが、すごく子供の気分になったのを覚えています。幽霊になったみたいで。
今日の札幌は初雪でした。お外に出たとき雨が降っている、と思って、よく見たら粒が大きくて雨でも雪でもないものが降ってました。つまんない。すごくつまらなくて心臓が軽い。日記に短歌を一首添える約束だったので、今日はこれにしよう、と思いました。

おそろいの花冠が生まれては消え生まれては消えばかみたい

もう少し続きます。ツイッターで見かけた岡大短歌10の引用で、成瀬遠足さんという方がとても気になっています。お名前も素敵です。次の給料日が来たら通販で頼むのを忘れないようにしたいです。
ツイッターは目の前がまっしろになるような良い短歌や良い文章に高い頻度で出会える点が素晴らしいと思っています。世界の良いものにくらくらすることは映画館でもアウトレットモールでも空港でもどこででもできますが、こと短歌の人に関しては、ツイッター無くしては出会えなかった人が大勢いますから。ちゃんとした文章でひとつひとつ良いところを紹介したいのに、全然発信ができていなくて心苦しいです。書くことは同時に膨大な「書かなかった」を生み出すことであり、あの人もこの人も言及したいのにそこまで風呂敷を広げられない自分の器量に歯噛みします。好きな理由を文章化することが非常に苦手で、感情的になりすぎてしまうのも致命的です。その点でも、「私はあなたに注目しています」という意思表示を比較的容易く行えるツイッターは良いのかもしれません。正しく使えていれば。
前置きが長くなりました。岡大短歌10の実物を所持していないため、ツイートの孫引きになることをご容赦ください。

惜しげなく。愛を与えても壊れないのが。神だけだった。神だけは愛せない。
すえた匂いがしてあなたの瞼が閉じて見えるこれから話すことがいまに懐かしい
/成瀬遠足「煌めきのために」岡大短歌10より

私が多賀盛剛さんの総ひらがな短歌を愛好している理由でもあるのですが、眼差しのおおらかさと流れる時間の雄大さに憧れます。それでいて成瀬さんは一人の人間としての烈しさを質量として保ちつつ、世界樹のようなおおらかさすら感じる時間の把握と言葉の柔らかさがあり、ぐっと惹かれます。あくまで引用歌に惹かれた理由ですので、連作全体で見たらまた違った感想になると思います。早く読みたいです。

 

2022.11.17
昨日は交換日記のことについて触れられなかったので、今日はそれについて書きます。
私が初めて買った歌集のうち一冊は東直子の「十階」で(ちなみにもう一冊は井上法子の『永遠でないほうの火』です)、ふらんす堂短歌日記シリーズという、365日間毎日詞書のようなごく短い日記に短歌を一首添えていく、といった構成の本でした。毎日の些細な出来事をほんの一部でも書き留めて積み重ねていくこと、そしてそれを短歌として昇華することへの憧れがその時に芽生え、日記と短歌を組み合わせた作品にずっと憧れを抱いていました。そして、笠木拓さんと柳川麻衣さんの「日記に幕は下りません」という素晴らしいオンライン交換日記(現在は書籍化しています)と出会えたことによって、公開交換日記への憧れも芽生えました。公開交換日記は、御糸さちさんと西村曜さんと千原こはぎさんが一日の日記に短歌を一〜複数首添えるタイプの「水たまりとシトロン」を現在も更新し続けており、短歌を詠み込む形式としてはこちらも参考にしています。大好きです。
いま、ふたつの夢を一緒に叶えられる相手と巡り会えたことを、とても有り難く思います。短期間でも構いませんので、お互いのモチベーションのためにも、個人的には自分の「佐倉誰」という作者像から逃げ道を減らすためにも、書くことを続けられたら幸いです。椎名林檎東京事変を結成したエピソードに近いところがあるかもしれません。そんなこともないかも。

ところで、突然短歌が挟まる散文の例として思い浮かぶのは三上春海さんの「献本御礼/論」(『稀風社の水辺』所収)などがあります。文壇の献本文化へ思うところを忌憚なく述べる散文のところどころに計30首の短歌が挿入され、それが全体の文章を補填している、という変わった構成です。これも短歌連作の一種と言えるかもしれません。私がこの形式を好きなのは、ミュージカル映画や舞台に対する「お!この人なんか急に歌い出したぞ!」の嬉しさと同じかもしれません。どんなに真面目な文章でも、いきなりラップバトルが始まったみたいでちょっと面白くなります。なので私も途中でいきなり歌い出す日記を書きたくなりました。

ろくな目を見てきてほしい 歌と共に書かれた手紙は遠くまで往く

閑話休題
違国日記という漫画の最序盤に、親を亡くした主人公へ少女小説家である叔母が日記を書くように助言する重要なシーンがあります。とても美しいページなので可能なら是非読んでいただきたいです。

「日記は」
「今 書きたいことを書けばいい 書きたくないことは書かなくていい」
「ほんとうのことを書く必要もない」
────違国日記1巻より

また、仲井澪さんのブログに載っている8月28日の日記からも抜粋します。

ほぼ日ブームがあって日記も他人の視線を持ち込むものになったし、SNSも日記に漸近している。私は誰にも言えないことや感情を放出できる場所を自分の手で守ることが大切だと思うから、 みんなが誰にも見せられない日記を書いていたらいいと思う

日記を書き、それを公開していく上で自分の不可侵を守ることは、とても大切なことだと思います。お互い生活と文章との距離をうまく取りつつ、自分の領域を守りながら自分を晒して、欲しいものを獲得していけたら理想的ですね。これからどうぞよろしくお願いします。

 

仲井澪

2022.11.18
ずっと、1人で日記を書いていました。
高校時代〜大学に入りたての数年間は、紙の手帳に毎日4行くらい書いていました。その日にあったことを書いたら終わってしまうくらいなので、私としては珍しく、長く続けることができていました。そのあと、何がきっかけだったかはてなブログに移行しました。ネットプリントなどにつけているlinktreeの一番下にURLを貼って、わざわざ読んでくれる人と内緒話をするように……と思って、毎日だったり、月に1回だったり、更新しています。でも、「誰かに読まれたり、読み続けたいと思われたりしたい」ということと、「人に見られることを意識せずに書きたい」ということを、両方しようとするなんてわがまますぎ……かもですね。
『違国日記』1巻のシーン、私も好きで、印象に残っています。「ほんとうのことを書く必要もない」ということ、怖かったりワクワクしたりします。
佐倉さんが引用してくださった私の記事の最後には、以下のように書いています。

結局日記に限らず、開くことと閉じること、みたいなことが人生の一大テーマになっていくんだろう、「誰にも見つからない孤独 そこにしか夢はない」(大森靖子『counter culture』)、「孤独を理想化するのはよくない」(友達)、扇動されて楽しそうなひとたち、たくさんの人がスマホ依存、「言わないと伝わらない」ということ、「よそはよそ うちはうち」で助からなかったものたち

佐倉さんと交換日記をすることで開かれたり閉じたりするいろいろなもののことが、すごく楽しみで、とても有り難く思います。よろしくお願いします。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏

プラネタリウムで働くなら星座の説明をずっと喋っていなくてはいけないから、黙ってはいられませんね。」って、そんなわけはないので、かわいいなと思いました。私がプラネタリウムについて考えるとき思い浮かぶのは、ドームに近づくほどうす暗くなっていく博物館の室内とか、背もたれの倒れたふかふかの椅子のことで、なぜか上映中のことがほとんどわかりません。寝てるのかな、そんなことないと思うのですが。佐倉さんがナレーションをされているプラネタリウムなら尚更寝るわけありません。そのために記憶を空けているのかもしれませんね(^。^)
今日は昼頃に起きて、ベローチェでミルクティーを飲みながら卒論を書きました。そのあとバイトを3時間して、カラオケに入って、カルピスソーダを飲みながら30分歌ったあと卒論を書こうと思ったり書いたりしました。朝に思い立って、夜には破りそうになった決意をなんとか守って、今は青葉市子さんという歌手のグッズのグラスに麦茶を入れて飲みながらこれを書いています。周りからは薄まって見えるものだから、少し激しめにふらふら歩いても大丈夫なんだろうな、と分かっているのに、いつまでもその調節が分かりません。

人の手がかけられた物だけの部屋で嫌な予感は外れると決まった

日記を書いている間は、1人だと思わないのかもしれません。

 

2022.11.21
夜、バイト帰りの電車の中で書いています。
昨日は文学フリマがありました。過去2回はQ短歌会のブースで売り子もしていたのですが、お昼すぎに別の予定もあったので、夕方に行って1時間でひと回りして帰りました。時間あたりにコミュニケーションをとる人数がこんなに多くて、自分が相手に覚えられているかどうかとかを気にしなきゃいけない(?)イベントって、結婚式とかそういうの以外にないよな〜と思います。
高校1年か2年のときに、同じく流通センターで開催している、「M3」という文フリの音楽版のようなイベントにひとりで行ったことを、文フリに行くたびに思い出します。当時ニコニコ生放送で仲良くなった、音楽を作る人に会いに行きました。お土産を渡したら、「お返しを用意してないから」と、購入した新譜と別のCDを渡してくださって、「かっこいい!私もこういうことしてみたい!」と思った記憶があります。実際に会ったことが、”インターネットで仲良くしていた人との記憶”のフォルダに入る、みたいなことって、古のネット文化みたいなものを象徴する一要素であって、切ないことでもうれしいことでもある気がします。

大切な画像をホーム画面にしてどうでもよくなるまでそうしてる

✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
最寄り駅のマクドナルドに移動しました。
私も好きな短歌について、文章にしたいけど出来ていないことがたくさんあります。11月に出版された、平出奔さんの『了解』(短歌研究社)の話をしたいです。

音楽は今でも人並みに聴くよ  あなたのしたことは正しかった
夕立が  泣く、って涙が出てるってことじゃないじゃん  屋根を打ってる
生きている限り背負っていてください/背負って生きていてください

詞書の多い連作がいくつかあって、あとがきも詞書のある連作になっていて、引いた歌にはついていないのですが、連作や歌集で読んでほしい、と思います。平出さんの短歌を読むとき、他の人の短歌を読むときと違う感覚がある気がして、いつも泣いてしまいます。読み進めるごとにずんずん潜っていく。「共感」すること/させることの怖さみたいなものが短歌には?世の中には?あって、それは実感としてもすごく分かるし、私が「いつも泣いてしまう」とか言ってしまうことの怖さも分かる一方で、「言っていることが分かる気がする」うれしさのことを自分はとても好きなんだと思います。1首目の2字空けと上下の同居のことを、すごく、分かる。
ネットの人間関係について多く言及していること、それがアクチュアルなことになる世代の短歌、と言われたら間違ってはいないんですが、どんなことが一般的にどうとかじゃなくて、自分にとって重要なことが重要なんだよ、ということを、1冊通して伝えているように私は感じています。そして、それを読めることがすごく嬉しい、それを媒介する短歌というジャンルを熱心に読んでいてよかった、と思います。