霜柱標本室

佐倉誰と仲井澪の公開交換日記です。日記と短歌です。最低ひと月に一往復を目安に更新します。

2022.11.16〜11.21(一往復め)

 

佐倉誰

2022.11.16
北海道に住んでいます。
東京のプラネタリウムで働きたい、と閃いたのは3週間前のことです。でも特に星は好きじゃありません。自分を構成するものから遠く離れて、なにか綺麗なものを黙ってじっと見ていられたら、という願望があったからそんな突飛なことを思いついたのかもしれません。でもプラネタリウムで働くなら星座の説明をずっと喋っていなくてはいけないから、黙ってはいられませんね。
最近はずっと引っ越しを夢想しています。一週間くらい前、短歌で連作を書こうとしたら真っ先に物件の内覧の妄想が出てきました。パリッとしたスーツに身を包んだ大人の人の後をついて、知らない空っぽのお家の中を見て回るのは不気味で楽しくて大好きです。嫌いな人の方が少ない気がしますがどうでしょう。私の生活に夢っぽくない時間はそんなにありませんが、その中でも内覧の記憶はだいぶ夢っぽいです。はじめて一人で物件の内覧をした時、2年前なので子供と言える歳でもありませんでしたが、すごく子供の気分になったのを覚えています。幽霊になったみたいで。
今日の札幌は初雪でした。お外に出たとき雨が降っている、と思って、よく見たら粒が大きくて雨でも雪でもないものが降ってました。つまんない。すごくつまらなくて心臓が軽い。日記に短歌を一首添える約束だったので、今日はこれにしよう、と思いました。

おそろいの花冠が生まれては消え生まれては消えばかみたい

もう少し続きます。ツイッターで見かけた岡大短歌10の引用で、成瀬遠足さんという方がとても気になっています。お名前も素敵です。次の給料日が来たら通販で頼むのを忘れないようにしたいです。
ツイッターは目の前がまっしろになるような良い短歌や良い文章に高い頻度で出会える点が素晴らしいと思っています。世界の良いものにくらくらすることは映画館でもアウトレットモールでも空港でもどこででもできますが、こと短歌の人に関しては、ツイッター無くしては出会えなかった人が大勢いますから。ちゃんとした文章でひとつひとつ良いところを紹介したいのに、全然発信ができていなくて心苦しいです。書くことは同時に膨大な「書かなかった」を生み出すことであり、あの人もこの人も言及したいのにそこまで風呂敷を広げられない自分の器量に歯噛みします。好きな理由を文章化することが非常に苦手で、感情的になりすぎてしまうのも致命的です。その点でも、「私はあなたに注目しています」という意思表示を比較的容易く行えるツイッターは良いのかもしれません。正しく使えていれば。
前置きが長くなりました。岡大短歌10の実物を所持していないため、ツイートの孫引きになることをご容赦ください。

惜しげなく。愛を与えても壊れないのが。神だけだった。神だけは愛せない。
すえた匂いがしてあなたの瞼が閉じて見えるこれから話すことがいまに懐かしい
/成瀬遠足「煌めきのために」岡大短歌10より

私が多賀盛剛さんの総ひらがな短歌を愛好している理由でもあるのですが、眼差しのおおらかさと流れる時間の雄大さに憧れます。それでいて成瀬さんは一人の人間としての烈しさを質量として保ちつつ、世界樹のようなおおらかさすら感じる時間の把握と言葉の柔らかさがあり、ぐっと惹かれます。あくまで引用歌に惹かれた理由ですので、連作全体で見たらまた違った感想になると思います。早く読みたいです。

 

2022.11.17
昨日は交換日記のことについて触れられなかったので、今日はそれについて書きます。
私が初めて買った歌集のうち一冊は東直子の「十階」で(ちなみにもう一冊は井上法子の『永遠でないほうの火』です)、ふらんす堂短歌日記シリーズという、365日間毎日詞書のようなごく短い日記に短歌を一首添えていく、といった構成の本でした。毎日の些細な出来事をほんの一部でも書き留めて積み重ねていくこと、そしてそれを短歌として昇華することへの憧れがその時に芽生え、日記と短歌を組み合わせた作品にずっと憧れを抱いていました。そして、笠木拓さんと柳川麻衣さんの「日記に幕は下りません」という素晴らしいオンライン交換日記(現在は書籍化しています)と出会えたことによって、公開交換日記への憧れも芽生えました。公開交換日記は、御糸さちさんと西村曜さんと千原こはぎさんが一日の日記に短歌を一〜複数首添えるタイプの「水たまりとシトロン」を現在も更新し続けており、短歌を詠み込む形式としてはこちらも参考にしています。大好きです。
いま、ふたつの夢を一緒に叶えられる相手と巡り会えたことを、とても有り難く思います。短期間でも構いませんので、お互いのモチベーションのためにも、個人的には自分の「佐倉誰」という作者像から逃げ道を減らすためにも、書くことを続けられたら幸いです。椎名林檎東京事変を結成したエピソードに近いところがあるかもしれません。そんなこともないかも。

ところで、突然短歌が挟まる散文の例として思い浮かぶのは三上春海さんの「献本御礼/論」(『稀風社の水辺』所収)などがあります。文壇の献本文化へ思うところを忌憚なく述べる散文のところどころに計30首の短歌が挿入され、それが全体の文章を補填している、という変わった構成です。これも短歌連作の一種と言えるかもしれません。私がこの形式を好きなのは、ミュージカル映画や舞台に対する「お!この人なんか急に歌い出したぞ!」の嬉しさと同じかもしれません。どんなに真面目な文章でも、いきなりラップバトルが始まったみたいでちょっと面白くなります。なので私も途中でいきなり歌い出す日記を書きたくなりました。

ろくな目を見てきてほしい 歌と共に書かれた手紙は遠くまで往く

閑話休題
違国日記という漫画の最序盤に、親を亡くした主人公へ少女小説家である叔母が日記を書くように助言する重要なシーンがあります。とても美しいページなので可能なら是非読んでいただきたいです。

「日記は」
「今 書きたいことを書けばいい 書きたくないことは書かなくていい」
「ほんとうのことを書く必要もない」
────違国日記1巻より

また、仲井澪さんのブログに載っている8月28日の日記からも抜粋します。

ほぼ日ブームがあって日記も他人の視線を持ち込むものになったし、SNSも日記に漸近している。私は誰にも言えないことや感情を放出できる場所を自分の手で守ることが大切だと思うから、 みんなが誰にも見せられない日記を書いていたらいいと思う

日記を書き、それを公開していく上で自分の不可侵を守ることは、とても大切なことだと思います。お互い生活と文章との距離をうまく取りつつ、自分の領域を守りながら自分を晒して、欲しいものを獲得していけたら理想的ですね。これからどうぞよろしくお願いします。

 

仲井澪

2022.11.18
ずっと、1人で日記を書いていました。
高校時代〜大学に入りたての数年間は、紙の手帳に毎日4行くらい書いていました。その日にあったことを書いたら終わってしまうくらいなので、私としては珍しく、長く続けることができていました。そのあと、何がきっかけだったかはてなブログに移行しました。ネットプリントなどにつけているlinktreeの一番下にURLを貼って、わざわざ読んでくれる人と内緒話をするように……と思って、毎日だったり、月に1回だったり、更新しています。でも、「誰かに読まれたり、読み続けたいと思われたりしたい」ということと、「人に見られることを意識せずに書きたい」ということを、両方しようとするなんてわがまますぎ……かもですね。
『違国日記』1巻のシーン、私も好きで、印象に残っています。「ほんとうのことを書く必要もない」ということ、怖かったりワクワクしたりします。
佐倉さんが引用してくださった私の記事の最後には、以下のように書いています。

結局日記に限らず、開くことと閉じること、みたいなことが人生の一大テーマになっていくんだろう、「誰にも見つからない孤独 そこにしか夢はない」(大森靖子『counter culture』)、「孤独を理想化するのはよくない」(友達)、扇動されて楽しそうなひとたち、たくさんの人がスマホ依存、「言わないと伝わらない」ということ、「よそはよそ うちはうち」で助からなかったものたち

佐倉さんと交換日記をすることで開かれたり閉じたりするいろいろなもののことが、すごく楽しみで、とても有り難く思います。よろしくお願いします。
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プラネタリウムで働くなら星座の説明をずっと喋っていなくてはいけないから、黙ってはいられませんね。」って、そんなわけはないので、かわいいなと思いました。私がプラネタリウムについて考えるとき思い浮かぶのは、ドームに近づくほどうす暗くなっていく博物館の室内とか、背もたれの倒れたふかふかの椅子のことで、なぜか上映中のことがほとんどわかりません。寝てるのかな、そんなことないと思うのですが。佐倉さんがナレーションをされているプラネタリウムなら尚更寝るわけありません。そのために記憶を空けているのかもしれませんね(^。^)
今日は昼頃に起きて、ベローチェでミルクティーを飲みながら卒論を書きました。そのあとバイトを3時間して、カラオケに入って、カルピスソーダを飲みながら30分歌ったあと卒論を書こうと思ったり書いたりしました。朝に思い立って、夜には破りそうになった決意をなんとか守って、今は青葉市子さんという歌手のグッズのグラスに麦茶を入れて飲みながらこれを書いています。周りからは薄まって見えるものだから、少し激しめにふらふら歩いても大丈夫なんだろうな、と分かっているのに、いつまでもその調節が分かりません。

人の手がかけられた物だけの部屋で嫌な予感は外れると決まった

日記を書いている間は、1人だと思わないのかもしれません。

 

2022.11.21
夜、バイト帰りの電車の中で書いています。
昨日は文学フリマがありました。過去2回はQ短歌会のブースで売り子もしていたのですが、お昼すぎに別の予定もあったので、夕方に行って1時間でひと回りして帰りました。時間あたりにコミュニケーションをとる人数がこんなに多くて、自分が相手に覚えられているかどうかとかを気にしなきゃいけない(?)イベントって、結婚式とかそういうの以外にないよな〜と思います。
高校1年か2年のときに、同じく流通センターで開催している、「M3」という文フリの音楽版のようなイベントにひとりで行ったことを、文フリに行くたびに思い出します。当時ニコニコ生放送で仲良くなった、音楽を作る人に会いに行きました。お土産を渡したら、「お返しを用意してないから」と、購入した新譜と別のCDを渡してくださって、「かっこいい!私もこういうことしてみたい!」と思った記憶があります。実際に会ったことが、”インターネットで仲良くしていた人との記憶”のフォルダに入る、みたいなことって、古のネット文化みたいなものを象徴する一要素であって、切ないことでもうれしいことでもある気がします。

大切な画像をホーム画面にしてどうでもよくなるまでそうしてる

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最寄り駅のマクドナルドに移動しました。
私も好きな短歌について、文章にしたいけど出来ていないことがたくさんあります。11月に出版された、平出奔さんの『了解』(短歌研究社)の話をしたいです。

音楽は今でも人並みに聴くよ  あなたのしたことは正しかった
夕立が  泣く、って涙が出てるってことじゃないじゃん  屋根を打ってる
生きている限り背負っていてください/背負って生きていてください

詞書の多い連作がいくつかあって、あとがきも詞書のある連作になっていて、引いた歌にはついていないのですが、連作や歌集で読んでほしい、と思います。平出さんの短歌を読むとき、他の人の短歌を読むときと違う感覚がある気がして、いつも泣いてしまいます。読み進めるごとにずんずん潜っていく。「共感」すること/させることの怖さみたいなものが短歌には?世の中には?あって、それは実感としてもすごく分かるし、私が「いつも泣いてしまう」とか言ってしまうことの怖さも分かる一方で、「言っていることが分かる気がする」うれしさのことを自分はとても好きなんだと思います。1首目の2字空けと上下の同居のことを、すごく、分かる。
ネットの人間関係について多く言及していること、それがアクチュアルなことになる世代の短歌、と言われたら間違ってはいないんですが、どんなことが一般的にどうとかじゃなくて、自分にとって重要なことが重要なんだよ、ということを、1冊通して伝えているように私は感じています。そして、それを読めることがすごく嬉しい、それを媒介する短歌というジャンルを熱心に読んでいてよかった、と思います。